動物園でハシビロコウを眺めていると、案内板に書かれた「Balaeniceps rex(バラエニケプス・レックス)」という学名が目に入りますよね。「クジラ頭の王様」という意味の、なんとも堂々とした名前です。
実はこの学名には、「この名前は、この1羽のことです」という“見本”の剥製が存在します。ところが、その見本の候補は2羽あって、長いあいだ「どちらが本物なのか」がはっきりしていませんでした。
2026年6月、イギリスの鳥類学の学術誌『Bulletin of the British Ornithologists’ Club(英国鳥学会誌)』に、この謎に答えを出す論文が掲載されました。舞台は170年以上前のナイル川と、ちょうど100年前のイギリスの古いお屋敷。今回は、2羽の剥製がたどった数奇な運命をご紹介します。
ちょっと解説:「タイプ標本」「ホロタイプ」とは?
新しい生き物に学名をつけるとき、研究者は「この名前はこの個体を指します」という基準の標本を決めます。これをタイプ標本といい、1点だけ指定されたものをホロタイプと呼びます。かつて重さの基準だった「キログラム原器」のように、学名の意味を最終的に決める“原器”のような存在です。世界中の研究者が迷ったときに立ち返る、とても大切な1点なんです。
物語の主人公は、型破りな冒険家マンスフィールド・パーキンズ
学名の誕生につながるハシビロコウをイギリスへ持ち帰ったのは、マンスフィールド・パーキンズ(1823〜1894)というイギリス人です。イングランド中部ノッティンガムシャーの裕福な地主の次男として育ち、ケンブリッジ大学に進みましたが、素行の問題で学位を取る前に大学を去ることになりました。
「もっと冒険に満ちた生き方がしたい」と、彼はまだ10代のうちに旅に出ます。ヨーロッパからコンスタンティノープル、エジプトを経て、1843年にアビシニア(現在のエチオピアとエリトリア)へ。そこで2年以上、地元の人々の中に溶け込んで暮らし、のちに旅行記も出版しました。1845年の終わりにはスーダンへ渡って1848年初めまで各地を旅し、エジプトでさらに1年ほど過ごしてから、1849年にようやく故郷へ戻っています。
スーダンで彼に案内された探検家フランシス・ゴルトンは、のちに「これまで知る旅行者の中で、最も天賦の才に恵まれた人物かもしれない」と評しています。
鳥の知識ゼロからの約2,000点
意外なのは、パーキンズ自身が「イギリスを出たときは鳥類学も博物学もまったく知らなかった」と手紙に書いていることです。せっかくの旅を少しでも役立てようと、道中で剥製づくりの手ほどきを受け、鳥を集めはじめたのだとか。
その「少しの鳥」は、最終的に約2,000点にものぼりました。ただ、イギリスへ送る道のりは過酷でした。
- 1便目(アビシニアの約1,200点):輸送中に少なくとも200点が盗まれる
- 2便目:イエメンのアデンで4年間足止めされ、1箱は行方不明、もう1箱はネズミにやられて全滅
- 3便目(ヌビアと白ナイルの約600点):無事に到着
白ナイルで手に入れたハシビロコウも、おそらくこの最後の便で海を渡ったのでしょう。ネズミの箱に入っていたら、今の学名はなかったかもしれないと思うと、ちょっとドキッとしますね。
「これまで見た中で最も驚くべき鳥」――グールドの興奮
帰国したパーキンズは、集めた鳥の一部を当時を代表する鳥類学者ジョン・グールドに託しました。グールドはその中にいた奇妙な大型の鳥にすぐ目をつけ、1850年の暮れ、雑誌『The Athenaeum』でBalaeniceps rexとして短く発表します。くわしい記載は、その後ロンドン動物学会の紀要に、画家ヨゼフ・ヴォルフの美しい図版とともに掲載されました。
発表直後、グールドはナポレオンの甥でもある鳥類学者ボナパルトへの手紙で、この鳥を「これまで目にした中で最も驚くべき鳥」と書き、「完璧な状態の美しい皮が1枚、私の家にある」と伝えています。この「1枚」という書き方が、のちの謎の手がかりのひとつになります。
郵便列車で、こっそり送られた1羽
この新発見には、鳥類学者たちが大騒ぎしました。なかでもスコットランドの博物学者ジャーディン卿は「どうしても実物を見たい」と、グールドに何度も手紙を送ります。根負けしたグールドは1851年1月末、標本を箱に入れて「誰にも言わずに」郵便列車で送ったと返事に書いています。その手紙には「オスとメスの2羽が白ナイルの上流で撃たれた」という一文もありました。
ジャーディン卿はさらにパーキンズ本人にも手紙を出しました。返ってきた答えは、拍子抜けするほど正直なものでした。
- あの鳥は自分で撃ったものでも、自分で剥製にしたものでもない
- 現地の人たちをあちこちへ送り出して集めてもらっていたので、くわしい情報は聞き出せなかった
- 撃たれたのは白ナイルのおよそ北緯10度あたり
- 珍しい鳥だとは知らなかったし、現地の人も特に何も言わなかった
世紀の新種が、本人にとっては「よくわからないけれど届いた鳥」だったわけです。
こうして世に出た不思議な新種は、その後も研究者たちの関心を集め続けます。1860年には、解剖学者ウィリアム・キッチン・パーカーがハシビロコウの骨格をくわしく調べた論文を発表しました。

オスとメス、どうやって見分けたの?
ここで論文の著者たちは、ある疑問を投げかけています。ハシビロコウは見た目ではオスとメスの区別がとても難しい鳥です。野生のつがいの観察で「メスと思われる方がやや小さい」という報告はあるものの、飼育の専門家の指針では、性別がわからない個体はDNA鑑定を強くすすめています。
現地にいなかったパーキンズの標本を、当時の人がなぜ「オスとメス」と言い切れたのか。この点は、今も謎のままです。
日本にもいた「実はメスだった」ハシビロコウ
見た目で雌雄を見分ける難しさは、日本の動物園でも実感されてきました。伊豆シャボテン動物公園で約39年暮らした「ビル」は、長年オスだと思われていましたが、2020年に亡くなった後の検査でメスだったとわかったのです。推定50歳以上という長寿記録とあわせて、ビルの物語をこちらでご紹介しています。

お屋敷の飾り棚から、湿った納屋へ
パーキンズは400羽以上の鳥をロンドンの剥製商に美しく仕立ててもらい、ノッティンガムシャーに構えた屋敷「ウッドボロー・ホール」のガラスケースに飾りました。1854年に結婚し、幼くして亡くなった息子のほかに8人の娘に恵まれます。
1894年にパーキンズが亡くなると、屋敷は売却され、遺品は娘たちに均等に分けられました。ハシビロコウ2羽を含む剥製のケースも、ここから静かな時を過ごすことになります。
再び動きがあったのは、それから30年以上たった1926年10月。娘のひとりエイダの夫である牧師が、ノッティンガムの自然史博物館(ウォラトン・ホール)の館長にこんな手紙を書きます。「わが家のガレージに、パーキンズ氏の剥製の大きなケースが10個ある。屋敷から湿った納屋に放り出されていたのを、妻が見つけたのだ」。

Photo: “Front of Wollaton Hall, Nottingham” by arrannffc / CC BY 2.0(Wikimedia Commons経由・サイズを縮小)
博物館はこの寄贈を受け入れ、別の娘の家にあったケースも加わりました。ただ、翌年の手紙には湿気と虫食いでかなり傷んでいたことも記されています。もしこのとき誰も声を上げなければ、ハシビロコウの剥製も納屋で朽ちていたかもしれません。
1926年11月、2羽は別々の道へ
寄贈予定のケースには、ハシビロコウが2羽そろって入っていました。ところが牧師は同じころ、ロンドンの大英博物館(自然史部門、現在のロンドン自然史博物館)の鳥類担当キニアにも連絡し、「ケースからハシビロコウを1羽取り出して、運んでほしい」と頼みます。
11月下旬、キニアが送り込んだ剥製師がケースを開け、1羽を取り出しました。牧師はその報告の中で、この1羽を「自然史博物館のためのタイプの鳥」と書いています。もう1羽は、同じケースに残ってノッティンガムへ。白ナイルからはるばる運ばれてきた2羽は、およそ80年を経て、ここで初めて別々の道を歩むことになりました。
ロンドンに渡った1羽は、1926年11月に「スーダン産のオス、この種のタイプ」として登録されました。翌1927年1月の理事会の議事録には、パーキンズの娘たちへ「タイプ標本の寄贈」に対する感謝を伝えるよう記録され、館長からも丁寧な礼状が届けられています。
2026年の今年は、この別れからちょうど100年。そう思うと、なんだか感慨深いですね。
2026年の論文が出した答え
それでも「どちらが本物の見本か」が改めて問題になったのは、1994年のことです。ノッティンガムの博物館がパーキンズの生涯を紹介する特別展を開くにあたり、2羽のタイプ標本としての立場をロンドン側に問い合わせました。2羽を並べて一緒に計測してみたものの、大きさがよく似ていて、決め手は見つかりませんでした。
そこで今回の論文では、グールドやパーキンズの手紙、1926年の牧師の手紙、博物館の登録簿や理事会の議事録といった、これまで公表されていなかった古い記録を丹念に洗い直しました。著者はロンドン自然史博物館の鳥類研究者とアーキビスト(記録資料の専門家)、そしてノッティンガムの博物館の担当者。2羽を持つ両方の館が協力した研究です。
結論は明快でした。1926年の時点で、関係者全員がロンドンの1羽を「グールドが新種の記載に使った個体」と理解していたことは疑いがない。のちに大英博物館のタイプ標本目録(1966年)でもホロタイプとして扱われている。学名のルールを定めた国際動物命名規約は、公表・未公表を問わずあらゆる証拠を考慮するよう定めている。したがってロンドン自然史博物館の標本(登録番号1926.11.19.1)をハシビロコウのホロタイプとすべきだ、というものです。
一方、ノッティンガムに残った1羽は、学名を背負う正式な立場はないものの、科学的にとても価値のある標本だと論文は述べています。さらに著者たちは、DNA分析でロンドンの1羽が本当にオスなのか、もう1羽がメスなのかを確かめることを提案しています。170年越しの「オスとメス」の答え合わせ、ぜひ見てみたいですよね。

(Prŷs-Jones, Rooke & King 2026 をもとに作成)
グールドの記載を彩ったリトグラフも見てみよう
グールドが発表したくわしい記載には、画家ヨゼフ・ヴォルフによる見事な図版が添えられていました。その図版を収めた19世紀の学会誌が、実は日本の玉川大学に所蔵されています。写真もない時代、ハシビロコウの姿を人々に伝えた美しい1枚をこちらでご紹介しています。

まとめ:いつか会いに行きたい、2羽のハシビロコウ
正直に言うと、私はまだロンドンにもノッティンガムにも行ったことがありません。ロンドンの1羽は、ロンドン郊外トリングにある自然史博物館の鳥類コレクションに収められています。研究用の大切な収蔵品なので、気軽に見られるものではないでしょう。ノッティンガムのウォラトン・ホールの1羽も、今展示されているかどうかは行く前に確かめたいところです。
それでも、いつか2羽に会いに行ってみたい。そう思わせてくれるのは、この物語が「どちらが本物か」だけで終わらないからです。ナイルの湿地で現地の人々の手からパーキンズのもとへ届き、ネズミの被害を免れ、納屋の湿気を生き延び、100年前に別れた2羽。そのどちらが欠けても、今の「Balaeniceps rex」という名前の物語はありませんでした。
次に動物園でハシビロコウの案内板を見かけたら、学名の向こうにいる“原器の1羽”のことを、少しだけ思い出してみてくださいね。
「クジラ頭の王様」だけじゃない!世界の呼び名をのぞいてみよう
学名Balaeniceps rexは「クジラ頭の王様」。では英語やドイツ語、アラビア語、ウガンダの現地語では、ハシビロコウをどう呼んでいるのでしょうか。「靴」派と「クジラ」派に分かれる、世界の呼び名をまとめました。

ヨーロッパの博物館で眠る、もうひとつの古い剥製
ドイツ・ミュンヘンには、1873年のハシビロコウの剥製が眠る動物学州立コレクション(ZSM)があります。研究用の施設のため、建物の目の前まで行ったものの、標本に会うことはかないませんでした。それでも足を運んでみた体験記を、あわせてどうぞ。

参考文献
- Prŷs-Jones, R. P., Rooke, K. & King, A. 2026. “Mansfield Parkyns, the Shoebill Balaeniceps rex and its type specimen.” Bulletin of the British Ornithologists’ Club 146(2): 216–220. https://doi.org/10.25226/bboc.v146i2.2026.a7(CC BY-NC 4.0)
- Gould, J. 1852. “On a new and most remarkable form in ornithology.” Proceedings of the Zoological Society of London 1851: 1–2, pl. Aves 35.
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